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第5章 90グラムのミックジャガー
病院で正社員になってから八か月がたちました。
週五日の勤務になり、長い時間キースを待たせなくてはいけない日が続き、キースもだんだんいたずらをするようになりました。
私の化粧ポーチを噛みちぎり、中に入っていたアイライナーやリップスティックを食べたり、家の柱をかじったり、畳やふすまをかじって穴を開けたり。
運動不足でストレスがたまっているのでしょうね。
電車の中ではいろいろと考えさせられました。
病院の勤務は大変だけれど、私にとっては毎日が勉強であり、研修中のような感覚で知識がどんどん増えていく。
病院へ着き、朝の全体ミーティングで、
「目が離せない生後二日の仔犬がICUの保育器に入っています。よく見てあげてください。」
と獣医師から申し送りがありました。
「仔犬? 早く見たい!」
そう思いながら、私は駆け足で保育器のところへ向かいました。
「え? なに? この子? チワワ?」
体重は五十グラムほど。
毛はほとんどなく、ピンク色の肌がむき出しで、目はまだ開いていないのに、目玉だけが大きく見える。
「宇宙人の子どもみたい……。」
そんなことを思いながら見つめていました。
そこへ主任が来て保育の方法を教えてくださり、
「みんなで育てましょう!」
と、生き生きとした声で言いました。
かなり危険な状態でしたが、病院スタッフみんなの看病に応えるかのように、その子は四十二日目を迎え、九十グラムまで成長しました。
「Mサイズの卵一個分くらい?」
飼い主さんは、
「お金が底をついてしまったので、これ以上の入院費は払えません。引き取ってくださる方を探しています。」
と話していました。
行き先が決まらない小さなチワワも、どこか不安そうに生きているように見えました。
大変な状態で連れて帰ったキースも元気に育っている。
家が決まれば、この子もきっと元気になる。
そう思った私は、手を挙げました。
「私でよければ、この子のママになります。」
皆さんは驚いていましたが、キースのことを知っているので、
「めぐみ先生なら育てられると思うよ。」
と言ってくれました。
私には不安はありませんでした。
それよりも、お留守番をしているキースは弟ができたら喜んでくれるかな、そんなことばかり考えていました。
その日の帰り、四十二日になった小さなチワワを連れて帰りました。
私の上着の内ポケットへ入れ、
「片道一時間の移動に耐えて、頑張れ! 家へ帰ろう!」
そう声をかけながら帰りました。
家へ着くと、キースはすぐに異変に気づきました。
目をまん丸にして、私の上着のポケットを鼻でツンツンしながら、においをかぎ始めました。
ポケットから小さなチワワを取り出すと、キースは目をまん丸にしたまま、その子の頭を優しくクンクンとかぎ始めました。
キースの面倒を見てくれていた親子のお友達も、
「え~? 誰? なに? どういうこと?」
と質問の連続です。
保育器から初めて外の空気を吸った小さなチワワは、体の色が悪くなってしまいました。
私は急いでドライヤーで体を温めながら、マッサージを始めました。
落ち着いたところで、この子の事情を説明すると、お友達はしばらく言葉が出ませんでした。
「育てられますか? 移動しただけで死にそうになっているのに、大丈夫ですか?」
私は答えました。
「この子は一生懸命生きようとしています。未熟児で生まれたので、どんな病気が出ても、急死しても、おかしくありません。」
「私にできることは、ほとんどありません。でも、家と家族だけはあげられます。」
すると友達は、
「好きなように頑張っていいよ。大丈夫。私がそばにいる。」
と言ってくれました。
そして私は、
「名前を決めた!」
と言いました。
今さらなのですが、キースの名前の由来は、あるバンドのボーカリストではなく、ギタリストの「Keith Richards(キース・リチャーズ)」です。
世界中で有名な人で、とても強く、誰とでもすぐに仲良くなれる人だと聞きました。
弱々しかった愛犬キースにも、キース・リチャーズのように強く育ち、誰とでも仲良くなれる子になってほしい。
そんな願いを込めて、「Keith(キース)」と名付けました。
キース・リチャーズの相棒、ミック・ジャガーは、とても大きな存在で、マイペースな人だそうです。
小さなチワワも、自分のペースで、ミック・ジャガーのように大きな男の子になってほしい。
そう願って、「Mick(ミック)」と名付けました。
キースがいる部屋の床に、ミックをそっと立たせてみました。
「今日から君は森ミックだよ。」
「ここが君の家で、私がママ。」
「キースはお兄ちゃん、クーはお兄様だよ。」
病院では離乳食を食べず、ミルクしか飲まないことが成長の遅れの原因だと言われていました。
そこでキースのごはんをつぶして、ミックにあげてみました。
「ミック、おいで!」
「ごはんを食べよう!」
「自分で食べな。食べないと全部キースに食べられちゃうぞ!」
私の隣でごはんを見つめているキースは、一生懸命我慢しています。
でも、よだれだけは滝のように口の横から流れています。
今まで床の上を歩いたことがないミックが、ふらふらしながら、ごはんのお皿の方へ歩き始めました。
お皿までたどり着くと、
「ムシャムシャ」
と食べ始めたのです。
歩いたことにも驚きましたが、生まれて初めて自分で食べるミックの姿に、大きな成長を感じました。
森ミックになって一か月が過ぎた頃、私はミックを連れて病院へ出勤しました。
病院のスタッフや獣医師の先生方は、皆とても驚いていました。
「奇跡の子が、チワワになった!」
九十グラムだったミックは、一か月で五百グラムまで成長しました。
そして、その日から病院では「奇跡の子」と呼ばれるようになりました。
